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メッセージ

創世記 講解(池戸愛一)

「聖書研究」No.51、(2018.3.27)「創世記01」

旧新約聖書は、旧約聖書部分が39巻、新約聖書の部分が27巻の合計66巻から成立していることはご承知の通りである。共同訳の聖書が発行されたときから、「15」巻が「続編」と云う名称で加えられた。続編の15巻は、カトリック教会では古くから使用されていたが、プロテスタント教会では、無視されていた「古典・外典」である。聖書学的に聖書の各巻を、どの様に分類するかは、いろいろな考え方があり、それぞれの思考経路は、一概に決め付けられない所であるが、当勉強会では、さしあたり、「49回のテキスト」に述べた様に、イレナレ(エ)ウスの説に基づき、黙示録の示唆に倣って「4つの契約」を基礎として学びを進めたいと思う。
第1の契約は、アダムと結ばれた契約。創世記1章から5章まで。
第2の契約は、ノアと結ばれた契約。創世記6章から11章まで。
第3の契約は、モーゼに律法が与えられて、新しい契約の時までである。
第4の契約は、云うまでもなく主イエス・キリストにおける永遠の契約である。第1~第3の契約までが、旧約聖書における神との約束事である。
1、創世記1~5章の契約について。 天地創造、”初めに、神は天地を創造された。“ と、天地、全宇宙は、神の御意志によって目的があって創造されたのであり、全知全能の神が、「干渉されたもの」であると、創世記はその初頭に宣言している。今日の天文学では、ある惑星は、わたしたちの知る太陽の位置に、その惑星を置くと、その表面は、木星の軌道にまで達すると云われるほど途轍(トテツ)もなく巨大なものである。その様に巨大な惑星がこの宇宙には、何十と存在すると解って来た。きょうこの頃の科学の進歩を知らなかったとはいえ、古(イニシエ)の哲学者の一人は、「自然は神の衣装である。」などと云っている。また、「自然は、第2の聖書である。」と云っているが、私たちが、知り得た広大な宇宙の営みや、身近な小さな自然の動向に、神の居まし給うことが理解できるのである。 ローマの手紙1章20節に、「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。」と記され、更に、「彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、・・むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」文語の聖書には、この所を「それ神の見るべからざる永遠の能力(チカラ)と神性とは、造られたる物により世の創(ハジメ)より悟り得て明らかに見るべければ、彼ら云い遁(ノガ)れるる術(スベ)なし。」とある。新島 襄は、青年時代に聖書のこの項に接して跪き、知らざる神に祈った「神よ、あなたが目を持ち給うなら、わたしをみそなわし、耳を持ち給うなら、わたしの祈りをお聞きください。」と祈ったと云う話は有名である。

2、神は光を創り出された。“神は云われた。「光あれ。」 こうして、光があった。(1:3)”天地創造の初めに、暗黒の中に「ひかり」を創り出し給うた神は、今も私たちの暗い心に、光を与えられるのである。 使徒パウロは、“「闇から光が出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。”と、
Ⅱコリント4:6に、その証しを書き残している。 神は6日間で、ひと通り、天地宇宙を創造し給うた。最初に、無生物を造り、次に生き物をお造りになり、最後に人をお造りになったと、創造の過程を示しておられるのである。
マルコの福音書には、また、イエスは云われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」とある。
神がお造りになった最後であり、特に念入りにお造りになったのは、人間である。「神は御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。」とある。人は神に似せて造られた霊なる創造物であり、霊の世界を理解しうる唯一の被造物として存在を許されている。「人は、たとえ全世界を手にいれても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」とキリストが教えられたと、マタイの福音書の16:26に記されている。チャーニングと云う学者は、「一個の人間たることは、帝王たるよりも、大統領たるよりも尊い。」と云っている。
天地創造の6日にわたる作業のその日毎に、神は、その出来栄えを「良し」と確認されたと聖書は記録している。6日の作業の完成した時は、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第6の日である。」と業務の凡てを「はなはだ良し」と確認しておられる。コヘレト(伝道の書)の言葉9章10節に「何によらず手を付けたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならない。」文語訳聖書では、「凡て汝の手に堪(タ)ふることは、力を尽くしてこれを為せ。」とある。この社会において、遣り甲斐のない仕事などある筈は無いのである。自らに課せられた仕事、奉仕に集中できることが、本当の意味での礼拝であると聖書は宣言している。

3、神は天地創造の主であり、無から有を生じ、命の無いところに、命をお造りになった方である。従って、同じ力をもって御手を延べられると、我々の内に、新しい心を造り、この時代の世界に、必要であれば、「新しい天と新しい地」を創造される方である。ダビデは「ああ神よ、わがために清き心をつくり、わが内になおき霊を新たに起こし給え。(詩編51:10)」「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。(詩編51:13)」と祈っている。(この所の節数の違いに注目) 黙示録21章3・4節には、「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神の許を離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聴いた。見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と、神による新天地、新しい社会の構築が示唆されている。
イ、エデンの園。 労働は神聖である。神の6日間と云う、尊い労働によって天地宇宙と、その中にある凡ての被造物が完成(終了形でなく、進行形である)したのであった。創世記第2章のテーマは、新設されたエデンの園にアダムを管理者としておき、凡ての被造物を守らせられた。と記している。「エデンとは何か」という疑問は、ごく一般的なものであろう。「その人は流れのほとりに植えられた木、ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」と詩編の記者は、理想郷を目の当たりに描いている。神さまの備えられた理想郷エデンは、働くことも労することもなく、備えられた被造物を面白、可笑しく利用して楽しむことの出来る楽園であろうか。「アダムをエデンの園におき、これを治め、これを守らせた」と、当初から、神はアダムに課せられた業務であった。中国の故事に「小人閑居して不善をなす。」とある。ユダヤのことわざにも「子に職業を教えざるはこれに盗みを教しうるなり。」とある。 神が備えられたエデンの園は、労せずつぐまざる楽園でなく、労働を是とし、汗を流すことを喜びとする楽園であった。園にある凡ての木の実は、こころのままに食することが出来たが、ただ、善悪を知る樹の果実は、食べてはならないと云うのが、神の戒めであった。「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手立てとせず、神の僕として行動しなさい。(Ⅰペトロ2:16)」とあるように、人類最初の父祖たちは行動するべきであった。

4、エデンからの追放。 象徴的な表現ではあるが、凡ての人類の父祖は「アダムとエバ」である。この神によって創り出された男女は、神が備えられた「エデン」と云う楽園で、与えられた仕事を楽しみ、悠々の生活を楽しんでいた所へ、訪ねて来たのは蛇に姿をかりたサタンであった。“だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるが良い。あなたがたを襲った試練で人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。“と、
Ⅰコリント10章12・13節にあるように、誘惑されたり、悪事に興味を持つことは「人の常」である。良からぬ事に興味を持ったり、誘われたりすることが悪ではなく、罪ではなくて、それに陥ることが悪であり、罪である。
エバ(又はイブ)は、蛇と話し相手になっている間に、何時しか誘惑につり込まれてしまったのである。マタイ4章10節に、”すると、イエスは云われた。「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。と書いてある。そこで、悪魔は離れさった。“ 主の兄弟ヤコブも「汝ら、神に従え、悪魔に立ち向かえ、さらば彼、なんじらを逃げ去らん。」と教えている。
アダムとエバは「善悪を知る果樹」を食べて堕落した。 「知恵を欲する」とは、人の基本的な興味である。 人の世の歴史は、この種の誘惑に弱いことを物語っている。故に、使徒パウロは「知識は人を高ぶらせるが、愛は(徳を)造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」(Ⅰコリント8章1・2節)と教え、3章18節には「自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」と戒めている。ウェリントンの言葉に、「神を敬うことを教えない教育は、知恵のある悪魔をつくる道である。」と云っている。エバは自分で禁じられた木の実を食べるに止まらず、夫であるアダムにも与えて食べさせた。Ⅰコリント15章33節に「悪いつきあいは、『良い習慣を台無しにする。』のです。正気になって身を正しなさい。」と教えた。

5、罪は人を誘う。 エバは、禁じられた果樹を口にした時、夫であるアダムにも食べさせたと記されている。その理由は、それが今までに味わったことがない美味であったからではなかった。人は罪を犯すと、他人を特に親しい者を誘うのである。先に引用したように「悪しき交わりは、良き習わしを害するなり。」である。わたしたちは、悪い交わりを戒めねばならない。特に、夫婦、親子、兄弟の親しい関係に於いては、猶更(ナオサラ)である。「人の仇は、その家の者なるべし。」との言い草はその事実を教えるのであろう。
A、アダムとエバは、神の声を避けた。 人は過ちを犯すと,良心に責めを覚えて、神の御顔を避けようとする。聖書には、神の呼びかけに応えず、御顔を避けて木陰に身を隠したとある。「神に逆らう者に平和はないと、主は云われる。」とイザヤは、その書に書き記した。
B、罪は、他人のせいにする。 アダムは罪を指摘されると、「あなたがわたしと共にいるようにして下さった女が、木から取って与えたので、食べました」言い訳をしている。エバは、「蛇が騙したので、食べてしまいました。」と答えている。
C、失楽園の最大の理由。 アダムとエバが、禁断の木の実を食べた報いとしてエデンを追われたのであるが、その最大の事由は、犯した罪を他人のせいにしたことであった。マタイの記録したイエスの説話に「婚宴のたとえ」がある。礼服を着用しないで列席していた客が、追い出された記事である。当時、婚礼式には、式場で着用する礼服は、入り口に用意されていて、列席者は、その礼服を受け取って着用し着席する決まりがあったと云う。その規則を故意に破った男は宴席から追放されたのであった。「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」とある。故意の罪を他人事のように思い、他人に罪を転嫁しようと考える事こそが、失楽園の最大の罪悪である。


「聖書研究会」№52(2018.4.3)創世記(2)

1、エデンの園を追われた「アダム一家」 アダムとエバは、楽園を追われ、仕事の大変さや、労働の辛さ、を知ることになった。地は茨とあざみを生えさせ、額に汗をする労働を知ることになったと、記されている。”土は茨とあざみを生えでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。“ 神は楽園での仕事では、知ることのなかった労働の苦痛を味わうようになったのである。たが、神は、二人での生活を楽しむことは許された。“さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と云った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。”と続いている。彼らの一見、幸せそうな日々は継続した。しかし、悔い改めと、反省の伴わない生活は、とんでもない破壊を生み出す事になったのである。
A、カインとアベル。 カインは土を耕す者になり、弟アベルは羊を飼う者になった。二人の兄弟は、職種は違っていたが、父親の感化によって、”時を経て、カインは土の実りを主の許に献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。“ 主はカインに云われた「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と云われた。それぞれの働きの実を主に捧げたのに、神はアベルの捧げものに目を留められて、カインの捧げものは無視されたのである。なぜ、同じ捧げものを差別されたのかと云う疑問を抱くのであるが、ここには、大きな違いがあった。カインは地の産物をさり気なく無造作に整えたが、アベルは、群れの肥えた初子をわざわざ選んだのであった。
最初の殺人事件。 神はカインに尋ねて、「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」この問答は大変に有名であり、人の心に住む罪のしつっこさを表わしている。
カインは、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。カインの妻は、エノクを産んだ。カインは、その子のために町を作り、エノクと名付けた。エノクにはイラドが生まれ、イラドには、メフヤエルが生まれ、メフヤエルには、メトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクガ生まれた。レメクは二人の妻を娶りとある。カインの子孫のうち、「ヤバルは、天幕に住んで、家畜を飼う者になり、家畜を飼う者の先祖」となり、弟のユバルは、「竪琴や笛を奏でる者の先祖になり、」腹違いの弟トバル・カインは、「鍛冶屋になった。」と記されているように、彼らの間には物質文明の進歩があったように記録されている。しかしながら、彼らの生活には、神に対する敬虔の思いがなかった。レメクは、二人の妻を持ち、人類、第二の殺人事件「わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す(4:23)」を引き起こしてしまったのである。

2、エデン追放から、「神に帰る」時が来た。 
カインの子たちが、罪から罪へと落ちていく間に、アダムの妻は、「セト」と云う男子を授かった。セトにも男の子が生まれて「エノシュ」と名付けられた。聖書には、エデンを追放されて後、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」と記されている。「セト」の子孫は、神を敬う生活を取り戻したのであった。
 預言者エリヤが、当時のユダヤ人たちが、不信仰と罪悪とに陥り、手の付けようのない有様を嘆いた折、神は「しかし、わたしはイスラエルに7000人を残す。これは皆、バアルにひざまかず、これに口づけしなかった者であると云われた。 物質的進歩を、人の世の至上のものと考える傾向は、エデンの時代から少しも変化しない人間の性(サガ)であろうか、性(サガ)は性(サガ)なりに、前向きな方法・方針に用いなくてはならないのである。暗黒に光明と云える御言葉に胸を撫で下ろす様な気分になる「人々エホバの名を呼ぶことを始めたり。」と文語訳聖書は語っている。創世記第5章に至り、「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。」と記録した。次いで、アダムは130歳になった時、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けたと記し、セトが生まれた後、800年生きて、息子や娘をもうけた。 アダムは930歳で死んだとある。セトは912歳、エノシュは905歳、ケナンは、910歳、マハラルエル、イエレドは962歳、エノクは、生き乍ら天に帰った。メトシェラは一番長寿で969年に達したとある。レメクは777歳で死んだ、ノア(慰めの意)、そして、「セム」「ハム」「ヤフェト」が続き、第6章に移行する。
荒廃した地上。 第6章には、意味不明な記述が始められる。“さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。”とあり、これは神の御心に添わなかったので、人の齢(ヨワイ)は、120年になったと云うのである。 

3、長寿の終わり。 ノアまでの人類は、800年900年の長寿が与えられていたようだが、何か不都合があったのであろうか。次に、「神の子たち」と云う、得体の知れない存在である。4章4節にも”地上にはネフィリムがいた。“と「なぞ」の人々の生存が記されている。「神は人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。わたしはこれらを造ったことを後悔する」とあり、「しかし、ノアは主の好意を得た。」と結ばれている。
イ、ノアの箱舟造りと洪水。 ノアは山中に巨大な船を造り始めた。長さ、300アンマ(135M)。幅、50あんま(22m)。高さ、30アンマ(13M)の3階建ての箱舟であった。完成し、神の選ばれた動物が収納されると、雨が降り始めた。40日40夜、降り続いた雨は、大洪水を引き起こし、地の上は完全に水没し、凡ての生き物は死んでしまった。 7か月後に、船はアララト山に漂着したが、第10の月には、周囲の山々の姿が見え始め、おおよそ、1か年を経て、外へ出ることが出来たと記されている。
ノアは、何を差置いても、家族や、多くの動物たちを救って下さった神に、感謝の意味を込めて「主のために祭壇を築いた。」とある。  
ロ、祝福と契約。 ”神はノアと彼の息子たちを祝福して云われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地に這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。“と約束されたのであった。これが、ノアと交わされた神の第2の契約である。そして、4節以下には、契約に対する律法が記されている。
神は一度、罪悪に穢れた世界は「大洪水」をもって、大掃除をされたが、それにも、拘わらず「罪悪」は依然として、その後も残ってしまった。ある伝道者は「シャツを洗っても、心を洗わねば、清い人になることは出来ない。」と云っている。ゼカリヤ書13章に「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」また、「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハネの手紙1章7節)と明記されている。
ハ、虹。 「わたしは雲の中に「わたしの虹」を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」と、9章12節に宣言された。空に広がる7色の虹が、この時、初めて出たと云う訳でなく、「神の契約としての虹である。」虹はそれまでも、雨上がりの空を彩る自然の造形美であったに違いないが、ノアの時の虹は、特別に神は、「契約の印」とされたのであり、ノアとその家族には、1年にわたる船上生活からの解放と相俟って、感激・灌漑も一入(ヒトシオ)であったことは想像されます。ある聖書の註解書に、「わたしたちは、暗い逆境を経て後に、明るい希望を見出す場合が多い。虹は、また暗雲を背景として現れるのであって、艱難試練の半面に、神の恵みを見出すチャンスとして扱われるのである。」とあった。虹色の意味を、「A神の情け、B憐れみ、C恵み、D真実、E正義、F知恵、G能力、」と、その註解書には、表現されていた。

4、ノアの失態。 大洪水を免れたノアも、長年の悪癖に勝てなかった。「ノアは農夫となり、ブドウ畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔っ払い、天幕の中で裸になって寝ていた。」と記されている。ユダヤの古書タルムドに、『ノアが畑で働いていると、サタンが来て、「何を作っているのか」と尋ねた。「ブドウを植えている」と答えると、「わたしも仲間に入れてくれ」と云い葡萄造りを手伝った。やがて、羊と獅子と豚とサルの血を混ぜた物を持ってきて、「肥料だ」と云って、葡萄の根に注いだと云う。その葡萄から醸造したぶどう酒は、人を酔わせて、はじめは、羊のように柔和であっても、やがて、獅子のごとくたけり狂い、豚のように、汚い真似をするようになる。更には、サルの様な無分別を仕出かすようになる。』とある。酒の害は大きく、健康もこころも傷め付けるのである。神に清いものと認証されたはずのノアさえ、狂わせられてしまった。箴言20章1節に「酒は人をして嘲らせ、濃き酒は人をして騒がしむ、これに迷わさるる者は無知なり。(文語)」「酒は不遜、強い酒は騒ぎ。酔う者が知恵を得ることはない。(共同訳)」と記し、また、箴言23章には、「酒を見つめるな。酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが、後になると、それは蛇のように噛み、蝮の毒のように広がる。」と戒めている。ノアがぶどう酒に酔い、天幕の中での醜態を演じたのは、洪水後の生活に、少しばかり慣れて来て、気持ちの緩みからであろう。しかしながら、決して許されることではない。事、此処に至り、ノアの醜態は、その子たちの人生をも狂わせてしまったのである。いずれにしても、人の欠点や弱点を見て、吹聴することは誤りである。況(マシテ)して、自分の父親の落ち度を言触らす事などあってはならないであろう。「往きて人の是非(ヨシアシ)を云う者は密事を洩らし、心の忠信なる者は事を隠す。」とあり、「おのれの父を嘲り、母に従うことを卑(イアシ)しとする眼は、谷のカラス、これを抜き出だし、鷲の雛(コ)これを食わん。」と教えている。セムとヤファトは、父の衣服を取り、後ろ向きに歩み寄り、父の裸を見ないようにして、衣服で覆ったとあるのは、慎み深い、思いやりのある行為として記録される事になったのである。(現実には不可能な行為である。)

5、世の権力者の品性。 ハムの子として、クシュが生まれ、クシュの子に、ニムロドが生まれた。「ニムロドは地上で最初の勇士となった。」と書かれている。彼は「世の力ある者(国王)」となったのである。彼の王国は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった。彼はその地方からアッシリアに進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンを建てた。レセンはニネベとカラとの間にある、非常に大きな町であった。」とその権勢を物語っている。時代的にズレはあるが、面白い伝承がある。「彼は、青年であったアブラム(アブラハムの旧名)が、本当の神を信じて、旧来の信仰を是としなかったために、ひどい迫害を加えて、真実の神への信仰を捨てさせようとした。」と云う。ニムロドには、「恐ろしき圧政者」という悪口が残っている。彼は、武勇に勝れ、強硬な専制政治を行い、威力を誇っていたと云うが、彼にとってそれが、どれだけの満足を得たかは疑わしいのである。
一介の野人から身を起こして、摂政関白の位に上り詰めた太閤、豊臣秀吉は、「功成り、名を遂げた」人物である。彼の政治を云々すれば、良しとするところは、甚だ覚束ないが、辞世の歌は立派である。「露とおき 露と消えぬる わが身かな 難波のことは 夢のまたゆめ」とある。「ニムロド」とて、「右に同じ」と、おそらくは、それと似ているのではないかと思うのである。
イエスは、マルコの福音書に「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10章42節)と教えておられる。

「聖書研究会」№53(4月10日)創世記(3)

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」と、創世記11章の初めに記録されている。この人々は、「東の方から移動してきた。」と、共同訳聖書は記録しているが、文語訳聖書も口語訳聖書も、「人々は、東に移り」「人衆(ヒトビト)東に移り」と記している。そこは「シナルの平野」「シンアルの平野」に町を築き、塔を建て、その頂上を天に届かせようとしたと云うのである。共同訳聖書から「シンアルの平野」と読むようになった。
1、バベルの塔。 「人の心には多くの計らいがある。」(箴言19章21節)シンアルの平野に街を築き始めた人々は、塔の頂を神の住み給う天の都にまで積み上げる目標を立てたのであった。向上心その物は決して「悪」ではないが、神と肩を並べようとの企て(クワダテ)は間違っている。「さあ、天にまで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と云ったとあるように、「驕り、高ぶりは悪である。」バベルの塔の基礎は、「神と等しくあろう」と云う人の傲慢を基礎としていたので、神はそれを阻止されたのである。人は、人生と云う建物の基礎を如何するかを、充分に検討する事が大切である。パウロは「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。」「ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることは出来ません。」とⅠコリント3章10節以下に述べられている。ノアの子孫たちがバベルの塔を建てようとした、虚栄や、野心や、高慢と不信仰との上に、人の一生と云う建築を試みてはならないのである。
イ、言葉の乱れ。 人々の言葉が乱れて、会話が通じなくなったと云う。ある説教者は「オーイ、レンガを持って来い」と呼び掛けると、材木が届けられ。「オーイ、穴をもっと深く」と云えば、埋めてしまうようなことが生じて、バベルの街作り工事は中断を余儀なくした。遂に工事を断念して、それぞれの国へ帰ってしまったと話している。
「バベル」とは、もともと「乱れ」と云う意味である。不信仰と罪悪とは、混乱のもとである。動機と精神が一致しなければ、お互いの間に理解を欠くことになり、あらゆる行き違いを引き起こすのである。すなわち、悪意のある所には、乱れを繰り返すのが世の習いである。しかし、愛のある処には、神にある「一致」がある。ペンテコステの日、使徒たちの言葉を聞いた異国人たちは、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」と言語の違いを超越した神の御業に感激している。

2、アブラムの家系と仕事。  アブラムは、アダムの子「セム」の家系であり、テラの息子であった。聖書には、「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。テラは205年の生涯を終えて、ハランで死んだ。」と一家の成り立ち動向を記録している。ウルに住んでいたテラの職業は定かではないが、伝承では、偶像を作成して販売することを生業(ナリワイ)としていた。その仕事が原因で三男のハランが幼いロトを残して死んで(殺された)しまった。 アブラムは、父親の職業に罪悪感を持っていたので、この機会を捉えて、父親を説得しカルデアのウルを離れる決心をしたのであった。テラは、一族を引き連れて故郷ウルを旅立った。途中のハランで旅をとめて、そこに住み、そこに死んだのであった。テラの死後、アブラムは、甥のロト一族を伴って、再び旅を継続してカナンに到達した。ハランには、弟ナホルの一族が残留したのであった。(アブラハムの子イサクの妻リベカは、ナホルの子べトエルの娘であった。)
アブラムの召命と移住。 アブラムがハランを旅立ったのは75歳であった。
シケムの聖所、モレの樫の木まで来たと、聖書には「主はアブラムに現れて云われた。“あなたの子孫にこの土地をあたえる。”アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。」とある。カナンに築いた第1の祭壇であった。次いで、べテルとアイの間に天幕を張り、第2の祭壇を築いた。その後、ネゲブ地方へ住まいを移したが、飢饉のためにエジプトへ移住する事になった。
「エジプトでのアブラムの失敗。 エジプトに入ろうとした時、妻サライに云った「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と云って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と云ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」
アブラムは、その妻サライを”妹”だと云ったために、取り返しのつかないことを引き起こしかかったのである。実際、サライはアブラムの異母妹であったが、彼女がアブラムの妻である以上、妹と名乗らせたのは偽りである。エジプト王ファラオからその事を詰(ナジ)られても、アブラムは、一言(イチゴン)の弁明も出来なかったのである。

3、アブラムとロト。 「欲深き 人のこころと 降る雪は 積もるに連れて
みちを忘するる」という古い歌がある。「富める者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」とイエスが仰せられたように簡単ではない。アブラムとロト、この二人は「はなはだ家畜と金銀とに富み」と記されているように裕福であったが、両者の富に関する関心は、歓心と、寒心ほどの差があった。
アブラムとロトの牧者たちの間に争いが生まれた。同じ区域の牧草地を利用しながら、お互いの家畜を飼っていたので、牧草地の奪い合いや、水飲み場の取り合いを演じていたのである。「アブラムはロトに云った。わたしたちは親類同士だ。私とあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのは止めよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」と提案した。ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン河流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。ロトはヨルダン河流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れたとある。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる。」(Ⅰコリ3:3)と云って、妬みや争いは、クリスチャン生活に相応しくないと教えた。マタイも5章23節以下に、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」と記している。
アブラムは、何処までも平和穏健を旨とした。「地は皆、汝の前にあるにあらずや。請う、我を離れよ。汝もし、左に行かば、われ右に行かん。また汝右に行かば、我左に行かん。」とは、如何にも寛大な年長者の言葉であった。ロトは、ここまでの叔父の言葉に、「肥沃な土地は、叔父さんが使ってください。わたしは、まだ若いのですから、こちら側を開拓します。と応えるべきであった。 古い歌に「逆らわぬ 風にやなぎの糸を持て かんにん袋 縫うべかりけり」とある。 アブラムの何処までも寛厚と無欲とを好いことに、ロトはあらゆる便宜を独占したのであった。「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは,御父から出ないで、世から出ているからです。」とあるように、ロトが低地を見渡したのは「目の欲」であった。 古来、サタンは、多くの人々を「目の欲」で誘ったのである。エバの時は「女が見るとその木は如何にもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(ソシノカ)していた。」とある。 「アイの街」を攻めたヨシュアの軍は、アカンの目の欲「分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀200シュケル、重さ50シュケルの金の延べ板があるのを見て、」私(ワタクシ)して、イスラエルの全軍に大迷惑を及ぼしたのであった。「右の目があなたを躓かせるなら、抉り出して捨ててしまいなさい。」と、イエスも教えておられる。かの勇士ダビデも「彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった」と、部下の妻を横取りした。人知れず犯した罪を、預言者ナタンに叱責されたのであった。

4、ロトの失敗とアブラムへの祝福。 ロトも、当初はヨルダンの窪地に天幕を張って、牧畜業に励んでいたが、何時しか、ソドムの街の近くへ、そして、遂には街の中に住いするようになってしまった。娘たちは街の若者たちと結婚した。13章13節に「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。」と記録されている。しかるにロトは、その大いなる罪人どもと、一緒に住いすることになったのである。大昔、孟子の母親は、その子の教育のために、市場から郊外に転居し、郊外から学校の隣りに居を移したと云う。ロトはべテルとアイの間からソドムの近郊に転居し、遂にはソドムの街中へと移住したのである。孟子の母親とは正反対の行為である。
むかし話しに、“猿が「酒を飲んでも酔わねば好かろう」「酔っ払っても
踊らなければよかろう。」と云って、したたか飲んで酔っ払い踊りだしてしまった、遂に猟師の罠に掛かって捕まってしまった。“とある、人の世の交友にも、留意し過ぎると云うことは決してないのである。「類は類をもって集う」との格言は本当のことである。それ故に、真面目に神に仕えようと願う者は、不断から、その身を置く境遇・環境に注意せねばならないのであって、「居は、気を移すものなり」との言い草も軽視してはならないと思う。ロトが、わざわざ好んで誘惑の多い処に、身を置くような振る舞いは心得違いも甚だしいと、云わざるを得ないのであった。
アブラムへの祝福。 ロトと別れたアブラムに、神は語り掛け「さア、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。さあ、この土地を縦横に歩き回るが良い。わたしはそれをあなたに与えるから。」文語の聖書は、「汝の目を上げて汝の居る処より西、東、北、南を望め、おおよそ汝が見る所の地は、我これを永く汝と汝の末に與うべし、汝、立ちて縦横にその地を行巡るべし。」とある。諺に「深山、至宝在り。宝に心なき者、此れを得る。」とあるように、無欲なアブラムが、かえって目も届かぬほどの広大な土地を与えられることになった事を云うのであろう。「まず神の国と神の義とを求めよ。さらばすべてこれらの物は汝らに加えらるべし。」との主イエスの御教えの通りとなるのである。

5、ロトの救出。 アブラムの周辺とて、平穏な日々が続いた訳でもなかった。この地方にあった幾つかの小国は、ケドルラオメルに支配されていた。
これらの小国は、13年目に反旗を翻したのであったが、一進一退の攻防戦の後、結局は、そのクーデターは成功しなかった。この戦火のとばっちりで、ソドムの町に住んでいたロト一族は、すべての財産と共に捕虜として連れ去られてしまった。それを伝え聞いたアブラムは、彼のもとで訓練を受けた部下318人で追撃し、ロトとその家族、資産のすべてを取り返したとある。当然、ソドムの王は、アブラムを出迎えて謝意を示した。サレムの王(後のエルサレム)であり、いと高き神の祭司であった「メルキゼデク」もアブラムを祝福した。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されます様に。敵をあなたの手に渡されたいと高き神が称えられますように。」と、 アブラムは祝福の謝礼に、すべての物の十分の一を、彼に贈ったとあり、「十一献金」の原型になった。
メルキゼデク。(王の王を意味する)メルキ(又は、メルク)も、ゼデクも「王」を意味するヘブライ語であるが、万軍の主にお仕えする祭司の祭司、「大祭司」と、理解する事が無難であろう。
ダビデ王が、当時の世界を平定し、エルサレムに都をおいた時に、この一族の子孫と見られるエルサレムの「祭司メルキゼデク」は、ダビデ王のエルサレム占領を祝福し歓迎している。


聖書を読むときは

CASSATT, Mary Children on the Beach 1884 Oil on canvas, 98 x 74 cm National Gallery of Art, Washington
 聖書を読むときに

1 御言葉を通して神様に出会えるように願う

聖書を読み始める前に、少し時間をとり、語りかけてくださるよう神に求めましょう。そうすると、読み進めるうちに、何らかの考えが思い浮かぶかもしれません。神の愛について読むうちに、あなたは心動かされるかもしれません。

2 悔い改めをもって聖書を読む

聖書を読むのは、情報を得るためや、何かを証明するために読むのとは違います。御言葉に従順になると決心しましょう。自分の栄光と、他者に反論するためという、間違った理由で聖書を読むなら、かえってダメージを受けます。

3 比較的短い箇所や物語を黙想する

聖書を読むときには、ゆっくりと進む必要があります。御言葉の短い箇所にじっくり浸ってみてください。数節くらいがいいでしょう。その箇所を大恋愛中のラブレターを読むかのように、じっくり読んでください。読んだ箇所の中からいくつか特に心に響く語句があるかもしれません。それらの語句をとおして神が何かを語ろうとなさっているのか、尋ねてみましょう。

一日につき、一つの思い、あるいは一つの聖書箇所だけにする

御言葉の一節を選びましょう。それをその日の御言葉として、一日思いをめぐらせます。たとえば、詩篇4610「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」を選ぶとします。この言葉を思いに留めながら一日を過ごします。「今日は、できるかぎり、静まるようにします。自己弁護をしたり、私の願いどおりに他人に私のことを見てもらおうとしたりしません。今日一日、自分の思い通りにしようとしません。今日一日、何かを決めるときには、御声を聴くようにします。

5 この思いが自分の記憶の一部になるようにする

 御言葉を暗記することは、もっとも強力な方法の一つです。大切なのは、いくつ暗記するかではありません。御言葉の暗記も、目的に到達するための手段に過ぎません。

神の御心を求める者 vs. 神の御心を求めない者

BAZILLE, Jean-Frédéric Portrait of Auguste Renoir 1867 Oil on canvas, 122 x 107 cm Musée d'Orsay, Paris
望ましい友を見分けるための、七つの良いしるし    
 1 望ましい友は、愛をもってあなたに真実を告げる
(箴言27:6)。    
 2 望ましい友は、健全なアドバイスをする
(箴言27:9)。    
 3 望ましい友は、あなたを磨く
(箴言27:17)。    
 4 望ましい友は、あなたの知恵を成長させる
(箴言13:20)。    
 5 望ましい友は、あなたの身近にとどまる
(箴言18:24)。    
 6 望ましい友は、あなたを愛し、あなたの側に立つ
(箴言17:17)。    
 7 望ましい友は、苦難の時の助けである
(伝道者4:9~10)。    
望ましくない友を見分けるための、七つのしるし     
 1 望ましくない友は、不道徳で、ほかの人々を軽視する
(コリント第一5:11)。    
 2 望ましくない友は、気が変わりやすく安定しない
(箴言24:21~22)。    
 3 望ましくない友は、しばしば怒る
(箴言22:24~25)。    
 4 望ましくない友は、聖書的ではないアドバイスをする
(詩編1:1)。    
 5 望ましくない友は、不法な不信者である
(コリント第二6:14~15)。    
 6 望ましくない友は、愚か者である
(箴言13:20)。    
 7 望ましくない友は、神とその律法に対し不敬である
(詩編119:63)。    
   
 ストーミー・オマーティアン
『自分自身のために祈る 女性のための30の祈り』
 (CS成長センター)より

ナルニア物語 作者C・S・ルイスの言葉

REMBRANDT Harmenszoon van Rijn The Ascension of Christ 1636 Oil on canvas, 93 x 69 cm Alte Pinakothek, Munich
  「誰にせよ、キリストについてばかげたことを言うのはやめてもらいたい。ばかげたこととは、ほかでもない、世間の人びとがよく口にする次のセリフである、 『わたしはイエスを偉大な道徳的教師としてなら、よろこんで受け入れるが、自分は神だという彼の主張を受け入れるわけにはいかない』こういうことだけは 言ってはならないのだ。 
 
 単なる人間にすぎない者が、イエスが言ったようなことを言ったとしたら、そんな者は偉大な道徳的教師どころではない。彼は精神異常者か(中略)さもなければ、地獄の悪魔か、そのいずれかであろう。
 ここであなたがたは、どっちを取るか決断しなければならない。この男は神の子であったし、今もそうだ、と考えるか、さもなければ、狂人もしくはもっと悪質なもの、と考えるか。彼を悪鬼として打ち殺すか、さもなければ、彼の前にひれ伏して、これを主また神と呼ぶか。
 そのどちらを選ぶかは、あなたがたの自由である。しかし、彼を偉大な教師たる人間などと考えるナンセンスだけはやめようではないか」 
 ケンブリッジ大学教授 C・S・ルイス
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